それは昼時のこと。内装工事の現場を確認して事務所に向かう途中、ロッキーのテーマがズボンの後ろポケットで鳴った。携帯電話の呼び出し音だ。運転中のため取り出しての操作はかなわない。代わりに左耳にはめてあるブルートゥースマイクの通話ボタンを押した。

「…カナガワ…カナガワ」

フリーダイヤルへの着信を知らせるアナウンスが流れた。事務所を不在にする際、携帯電話に転送をかけている。走行中に入り込む騒音で相手の話が聞き取れないのを避けるため、窓を閉めて電話に出た。

「お電話ありがとうございます。JGクリーン社です」

ハンドルを握り、前を走る車に注意を払いながらも左耳に神経を集中させた。

「あの…ちょっとお伺いしたいのですが…おそうじをしていただける会社さんでしょうか?」

通話の相手は女性だった。声の通り具合からして、年の頃は四十ぐらいだろうか。誰が聞いても憔悴しきっているとわかるほど、か細い声が耳に入ってきた。 「はい、うけたまわっております。ですが弊社は一般的なハウスクリーニング会社さんとは違いまして、汚れがひどい場所の清掃が主な仕事となっております」

女性から「はい」と、不安だけとは明らかに違う、多少の安堵が入り混じった声が返ってきた。

「知人からこちらのことを聞きましてお電話しました。おそうじの場所はお風呂場なんですがお願い出来ますか?」

「はい、大丈夫です」

女性が大きく息を吐き出す音がイヤフォン越しに聞こえてきた。そこで具体的に今の状況を知るべくこちらから話を切り出した。

「恐れいりますが、いくつがご質問させていただいてもよろしいですか?」

「あっ、はい」

我を取り戻したのか今度ははっきりとした声が返ってきた。

「ありがとうございます。では、お風呂場の清掃をご依頼されたいとのことですが、現在どのような状況なのかお聞かせいただけますか?」

ほんの少しの間を置いて、女性は言いにくそうに話した。

「父が亡くなりまして…お風呂場で。警察の方に中は相当汚れているとだけ聞かされてて…あ、でも中は見ない方がいいと言われたので私は見ていないんです」

今のやり取りでなんとなく状況が掴めた。それと同時にこれ以上詳細に質問を浴びせるのは彼女の精神衛生上よくないとも感じた。

「わかりました。正確なお見積りはお部屋を拝見させていただかないとお出し出来ませんが、大体の金額でよろしければこの電話でのお伝えが可能です。いかがしますか?」

女性は「あ、はい、お願いします」と答えた。

そこでおおよその見積金額を伝えると、「わかりました。現地へのお見積りにはいつ来ていただけますか?」と女性は急に早口になった。一刻も早くお風呂場を綺麗にして欲しいのだろう。

「お近くなら今からでもお伺いすることは可能ですが、お部屋のご住所をお教えいただけますか?」

そういうと車を路肩に停めメモ帳を取り出した。

「はい、神奈川県☓☓市☓☓…」

書き留めた住所は今いる場所からそう離れてはいない。渋滞を見越しても一時間もあれば十分着けるだろう。

「お近くですね。最短一時間ほどでお伺いすることは出来ますが、いかがいたしますか?」

「本当ですか!? ありがとうございます。では一時間後にお部屋でお待ちしています」

やや弾んだ声で即答される。電話をかけてきた当初から比べるとだいぶ声に力がある。

「かしこまりました。では、あともう一点、わたくしは高坂と申します。失礼ですがお名前を頂戴してもよろしいですか?」

「あ、失礼しました、アダチです、足立区の足立です」

電話口の相手が先に名乗らない場合、見積りを依頼された時に訊くことにしている。ある程度の信頼関係が築けたと思われるまではこちらから尋ねることはない。

「足立様ですね、早速お伺いさせていただきます、では失礼いたします」

電話を切るとトラックの荷台にある道具を確認した。消毒液や養生材、おおよその物は揃っている。万が一、そのまま作業に移っても問題はない。

荷台にカバーをして車内に戻ると目的地に向け車を走らせた。

ひとつ気がかりに思うことがあった。女性の疲れきった声の裏には突然、父の死を受け入れなければならない状況があったからなのだろう。突然の死。それは事故、もしくは自殺を意味する。

「(きっと自殺だな…)」